2011年07月29日

頑張れ、加古川北高校

 今日は、高校野球兵庫県決勝でした。

 延長15回の末、2-2の引き分け再試合に。

 点を取られては、追い付くという、なでしこジャパンを連想しましたが、引き分けです。

 東洋大姫路も近くて身内のようなものですが、

 市内の高校を応援するのはしょうがないですね。

 180球も投げた両校のピッチャーの回復や如何に。
  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 17:43

2011年07月28日

草むしり

 昨日、昼休みにかなり生い茂ってしまった雑草を引くつもりにしていましたが、

 5時30分ごろに目がばっちり冴えてしまい、6時過ぎより、診療所の裏の畑の草むしりをしました。

 ウインドブレーカーの上下に、長靴、顔には虫よけ液を塗り、虫よけ付きの帽子、携帯蚊取り線香をぶら下げ完全防備。

 指先が汚れないように、診療用ラテックスグローブの上に軍手も。

 曇りがちだったので、助かったようですが、

 暑さと疲労でフラフラになりました。

 左右の手の握力はなくなるし、

 雑草の生命力はすさまじいですね。

 完全除去にはなりませんでしたが、概ね除去できました。

 べたべたになった下のTシャツを着たまま帰宅し

 すぐにシャワー。

 
 枝豆の実が入り始めています。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 07:47

2011年07月27日

23日の鮎釣り

 23日土曜日に午後から揖保川へ行ってきました。

 木村おとり店のおとりが猛暑ですこし弱いと分かっていましたが、選んで購入。瀬に入って、始めました。やはりあまり元気がなさそうで、流れの弱いところで頑張りました。
 3匹目のおとりが元気で、上へ上がって行きました。4時ごろようやくがつがつと当たって、竿に来ました。0.4号フロロ自作仕掛けはやや手尻を長くしていたので、強い引きで持ち上げられず、うろうろ走り回り、結局足元に来るまで苦労しまくり、なんとか掬えてゲットしました。21cmくらいでした。

 股にはさんだたま網に入れた野鮎を気にしながら手尻を短くし、再び開始。
しばらくすると、弱ってしまい、意気消沈気味でした。

 17:00過ぎに元気の良い養殖囮に替えて、しばらくするとガーンと来てそこから、2匹目、3匹目、キャッチミス、キャッチミス、4匹目、キャッチミス、5匹目と爆釣モードへ。

 引き抜きが抜きが弱く、たも手前1mでかけ鮎が水面に当たりばれるのと、方向が悪くて受けられないものばかりで、「うーー」とうなっていました。

 5匹どまりで、18:30に終わりましたが、後半は大変楽しくできました。

 型はほとんど20cmなのでいい感じでした。

 ちょっと調子が上がってきましたかね。

  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 10:55

2011年07月26日

JC後輩の結婚式

 日曜日の夕方、加古川青年会議所の後輩のH君の結婚記念パーティが神戸の北野クラブで行われました。

 会場には、ざっと、200名が集まりました。

 お相手はバイオリニストの上品な方でした。

 末永いお幸せを祈ります。


 彼との思い出深いことは、2001年私が直前理事長の時、加古川小学校のPTAの会長をしていた時、

 6月に起こった池田小学校の小学生殺傷事件を受けて、校門に警備員(外来管理受付人)をPTAの会費で

 来てもらえるように、彼の会社と交渉した時、時給が合わず、

 最終的には、社長である彼が「事情が事情なので、希望の金額に合わせます」と言って頂いたことです。

 おかげで、西日本、ひょっとすると日本で最初に、公立小学校の校門に、PTAが主となって

 警備員を配置することとなりました。

 後に配置されていくこととなる、他の学校の警備員の時給も、これに準じられていきました。

 当初は、校門の外にしかおられなかったのが、校門内に入れるようになり、座る椅子が与えられ、

 今では、広報誌に顔写真が載せられるようになっています。

 うれしい限りです。

 あの時は、ありがとうございました。

 そして、このたびは、おめでとうございます!

   


Posted by 中原歯科医院 院長 at 16:53

2011年07月25日

学術研修会

 昨日加古川JA会館にて、地元歯科医師会主催の学術研修会があり、参加してきました。

 9:30から16:00までの1日コースです。

 講師は奈良市開業で、国内でも有名なスタディーグループの副会長の貞光先生でした。

 内容は、審美修復

 口腔内診断の総論と実習でした。

 あらゆるところにこだわりと理論の裏付けがあり、大変勉強になりました。

 少しでも近づけるように気合を入れていきたいと思っています。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 11:55

2011年07月22日

なでしこジャパンの佐々木監督

 決勝戦のPK戦の前、円陣を組んだなでしこジャパンのメンバーはみんな笑顔でした。

 あれほどの重大な場面で笑顔を演出できる監督は稀有でしょう。


 そして、優勝した後、涙の歓喜かと思いきや、笑顔笑顔のオンパレード。

 将来の絶大な目標の高さに驚くところです。

 佐々木監督は指導力世界一の監督ですね。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 10:28

2011年07月21日

台風一過

 今回の大型台風で畑の野菜がどうなるか心配で、

 添え木を増やしていました。

 しかし、枝豆やトウモロコシまで添え木はできないので、どうなってしまうのか心配していました。

 台風の進路が東に向いたおかげで大した影響が出ず、

 畑の野菜はみんな元気です。


 台風の後はからっと晴れるはずなのに、すっきりしませんな。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 10:33

2011年07月20日

祝 なでしこジャパン優勝!

 18日の午前4時から決勝戦をライブで見ました。
 
 後半にモーガンの天才的なシュートを入れられましたが、宮間が運のいいこぼれ球を芸術シュートで同点。

 延長戦、またもやモーガンのセンタリングにランバクが待ってましたのような正確なヘディングシュート。

 残り時間が気になりだした頃に、宮間のコナーキックに澤が得意の駆け出しシュートで同点。

 終了間際のドーハの悲劇を思い起こすフリーキックをしのぎました。

 それぞれに大声で妻と唸り、歓喜していました。

 そして、運命のPK戦

 海堀が最初のシュートを驚異のセーブ。宮間の落ち着いたゴール。

 アメリカのプレッシャーによるミスキック。そして、海堀の驚異のセーブ。

 最後は、熊谷の左上角の絶対取れない所への豪快シュート!!

 これには、しびれました。


 本当に感動のゲームでした。一生忘れることはないでしょう。

 最近、ロシア戦争を調べていたので、連想したことは、

 スポーツとはいえ、「大東亜戦争のひとつの仇を取った」気分です。

 「ちょっと大げさです」  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 11:02

2011年07月19日

日露戦争の原因⑤ 最終

 日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨、山本権兵衛ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。
1903年4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。
桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(後の十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
そして、日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。
  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 07:12

2011年07月16日

日露戦争の原因④

 ロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を押し進めていった。
 1900年に、列強の中国侵略の深まりに中国民衆の大規模な抵抗運動である義和団の乱(義和団事変、義和団事件、北清事変)が勃発した。これには、ドイツ、ロシア、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、オーストリア、日本などが連合軍を組織して鎮圧にあたった。(清の皇帝徳宗と西太后は西安に逃れた)
ロシアは、その混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。ロシアは大韓帝国の親露支配者級の高宗を通じ売り払われた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増していた。
日本にとって、朝鮮の支配することは、内地防衛の要所を押さえることと北方へ進出するための足がかりとなり最重要案件であった。
ロシアの南下が自国の権益と衝突するとボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、危機感を募らせ、1902年に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。
  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 09:00

2011年07月15日

日露戦争の原因③

 明治維新以降、福沢諭吉の「学問のすすめ」「脱亜論」により、独立国家と清や朝鮮との朝貢制度の壊滅を目指し、「力の政治」をもつ西洋型近代国家の建設を急ぐ日本は、日朝修好条規や日清修好条規を取り交わしながら、西欧型外交を進めていた。
また、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。
1894年朝鮮で奉献支配に反対する武装反乱(甲午農民反乱)が起こり、その鎮圧に日清両国が大軍を送ったところから日清戦争が始まった。この戦争に日本が勝利した結果、「華夷秩序」による東アジアの国際関係は崩れ去り、清国の勢力は朝鮮からなくなり、懸案の「琉球帰属問題」が解決し台湾も日本の領土とし、初めて植民地を持つこととなる。   
しかし、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。
世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。
  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 07:24

2011年07月14日

日露戦争の原因②

 以下、この戦争に至るまでの経過、原因を述べる。
 ロシアは、広大な国土はあるものの不凍港はほとんどなく、それを確保するべく南下することは国家の至上命題であった。19世紀半ばに入ると農奴解放を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争(1853~1856)などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、極東への進出を重視してきた。
1855年2月に伊豆半島の下田で日露和親条約を締結した。さらに、1858年に日露修好通商条約を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれて、樺太は両国これまで通り(雑居地)として日露の正式な国交が開始する。1875年には樺太・千島交換条約が結ばれて千島列島は全島が日本領とされ、それまで両国民混住の地とされていた樺太(サハリン)はロシア領に定められた。
この間、プチャーチンによって中国(清)に圧力をかけアイグン条約(1858年)で黒龍江東岸の中国領土を獲得したロシアは、中国分割に参加する列強の一角として、1860年中国から沿海州も獲得しマンチュリア(満州、現在の中国東北地区)への進出を強めた。
ロシア帝国は、再び、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争(1877~1878)などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。
ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。
  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 11:19

2011年07月13日

日露戦争の原因①

 日露戦争の原因について興味のある方は少ないでしょうが、頑張って作った力作なので、分割してアップします。

 日露戦争は、1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
 日本の勝利となったこの戦争は、「黄色人種が白色人種に初めて勝った戦争」であり、日本の世界的な評価を高め、ロシア帝国に支配されていた国々からは絶賛を浴び、その後、当時の日本の本意ではないが、世界的な帝国主義・植民地時代に独立運動を引き起こしていくこととなる。
 一方、日本は列強の仲間入りを果たしつつも、第2次世界大戦・太平洋戦争へ突き進み
現在に至っても、決して自立国と言えないほどの長い敗戦時代を余儀なくさせられることとなる。
 両国の目的と動機の概略は、大日本帝国は三国干渉および義和団の乱後満洲を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下(朝鮮支配)を防ぎ、日本の安全保障と半島での権益を確保することを目的とし、ロシア帝国は遼東半島の旅順、大連租借権等の確保と満洲および朝鮮における自国権益の維持・拡大を目的とした。
  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 10:48

2011年07月12日

9日(土)の鮎釣り

 数日間の雨でかなり増水していて、何とか釣りになりそうな土曜日の午後、揖保川へ鮎釣りに行ってきました。

 まだ、数位が高いのでマイポイントよりもっと上流のほうが良いと思い、オアシス前という増水には強いと思われるポイントへ初めて行きました。

 すると、ちょっと上流に一人入川者があり、しばらく見ていましたが、動きがしんどそうでした。また、オアシス前に入るにはかなり歩いて行かないといけないことが分かり、ながさわ裏との中間で、入りやすく
石の色もよさそうな瀬をみつけ、ここならと思っておとりを買いに行きました。

 おとり屋で釣果を聞くと、「ナガサワ裏ではまだ釣れていない」とのことで、すこし不安げに入りました。川へ降りる草むら道に蜘蛛の巣が張っており、いけそうな予感を感じながら、始めました。

 7号3本バリではじめ、1,2度がつがつというあたりを感じたものの、2時間粘りましたが、断念。

 あとは、日没までマイポイントしかないと思い、下りました。

 マイポイントにつくと、車に乗って川見している方がおられ、釣りに入る私を見て「今日は水位が高いやろ」と言われましたが、他に行くところもないので、入っていきました。

 いつもは、おおきな水たまりになっている手前が立派な川になっており、渡るのに苦労しました。

 ようやく釣りを開始したものの、全く反応なく、昨年いっぱい釣った感じが全くありません。

 いろいろポイントを替え、おもりも使いやって見ましたが、18:30分おもりが入っていけない所で引っ掛かり放ちゃんして納竿となりました。

 帰宅して、いろいろHPを見てみると、もっと下流では、たくさん釣れていたようでした。

 絶不調です!  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 07:24

2011年07月11日

泊神社の相撲大会

 昨日、泊神社の氏子の小学生を対象とした恒例の相撲大会がありました。

 昨年小学5年生で初めて出場した長男は、前年のチャンピョンを破ったものの、決勝戦で敗れ準優勝していました。

 今年はやる気満々で、塾の定期テストは、両親公認で休み、大会に挑みました。

 結果は、個人戦見事優勝。大将で出た団体戦の木村も優勝しました。

 今年一番のうれしさでした。

 土曜日に息子と久しぶりの腕相撲をしたところ、右腕は私の圧勝でしたが、左腕は勝負がつかず、引き分けでした。

 大きくなったものだと感じました。

 息子の身長は153cm。当時の私はまだ小さく136cm。絶対私にはできない優勝です。


 私の鮎釣りは絶不調ですが、息子は絶好調です。

 明日の神戸新聞に結果が出るでしょう。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 11:31

2011年07月08日

梅雨明けと畑

 ついに、近畿地方が梅雨明けとなりました。

 最近の天気予報はよく外れるので、いっぱい雨が降るかもしれません。

 これまでは、雨が良く降るおかげで、裏庭の畑にはあまりに水遣りしなくて良かったのですが、

 これからは、乾き具合を見ながら、蚊と闘いながら、水やりします。

 あと、雑草の草引きです。

 トマトは実がなり始め、ミニトマトは赤く熟し始めました。

 なすびとキュウリも身が分かるようになりました。

 トウモロコシと枝豆は、背丈が15cmほどになっています。

 これも楽しみです。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 17:33

2011年07月07日

メイド・イン・かこがわフェア2011開催

 明日7月8日(金)~14日(木)ニッケパークタウンにて

 「メイド・イン・かこがわフェア2011」を行います!
 
 「テキアツ君」の商品が展示されておりますので、

 良ければ、ご来場ください。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 10:51

2011年07月06日

長女の宿題

 東京へ行ったきりの長女から、めずらしくメールが。

 「大学、鬼、3000字以上のレポートが7つある。そのうち一つ書いて送って」

 内容は、アヘン戦争、日清戦争、日露戦争のいづれかの戦争の原因を書きなさいというものらしい

 3000字といえば、400字詰めで8枚。これは難しそう。

 妻に「そんなん、手伝う必要ないやろ」というと

 「佐彩が頼むなんてめずらしい。してやったら喜ぶよ!」と言われ、

 あっさり、手伝うことにしました。

 もてない父親の親ばかです。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 19:00

2011年07月05日

カルテ⑧消えたゴールドインレー

 とある患者さんの歯に装着していた10年来のゴールドインレーを作り直す必要があって、外して診療用のトレイに置きました。

 ゴールドで作成されたものを外した場合、必ずご本人に返しています。

 虫歯を削って取り除き、歯型を取って、仮づめして、そのゴールドインレーを返そうと思って見てみると
トレイにありませんでした。

 「?」

 そんなはずはない。

 「?」

 よくよく考えて、なくなる可能性があるとすれば、、、、

 ありました。

 歯型を取るときに、水で練ったゴムのような材料を使うのですが、

 それをトレイに一度おいて口の中に入れるのが普通で、

 その時に、ゴールドインレーの上に置いてしまったのでした。

 歯型を取った材料の端に埋まっていました。

 やれやれ。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 11:15

2011年07月04日

久しぶりの鮎釣り

 ほぼ1か月ぶり、3回目の鮎釣りに揖保川へ行ってきました。

 高砂のM先生と一緒でした。

 9時過ぎから、下野橋上流、六尺というところで始めました。

 ここは、昨年の後半に良い思いをしたところで、終盤には尺鮎も釣れるところです。

 釣り始めて2投目で14cmくらいの小型がかかり、幸先の良い感じでしたが、

 その後は、あたりがなく、重りをつけたりしながら頑張ったのですが、ダメでした。

 竿を担ぐスタイルにも慣れてきたものの、3匹のおとりはみんなグロッキーになりました。

 昼食の後、気合を入れなおし、2匹のおとりを追加しましたが、3時半まで粘ったものの残念な結果となりました。

 M先生は、あかんあかんと言いながら、8匹釣られ、実力の差を感じました。

 先ほど、おとり屋さんのHPを見てみると、一番のおすすめが、そこになっており、20匹釣った方がおられるようです。たぶんあの人かなと思う人がおられました。

 3回行ってボーズはないものの合計5匹とは。まだまだ修行が足りないようです。

 反省点はあるので、改善に努めます。

 次回は、9日土曜日の午後、初めてマイポイントへ行きます。  


Posted by 中原歯科医院 院長 at 12:12