2011年07月15日

日露戦争の原因③

 明治維新以降、福沢諭吉の「学問のすすめ」「脱亜論」により、独立国家と清や朝鮮との朝貢制度の壊滅を目指し、「力の政治」をもつ西洋型近代国家の建設を急ぐ日本は、日朝修好条規や日清修好条規を取り交わしながら、西欧型外交を進めていた。
また、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。
1894年朝鮮で奉献支配に反対する武装反乱(甲午農民反乱)が起こり、その鎮圧に日清両国が大軍を送ったところから日清戦争が始まった。この戦争に日本が勝利した結果、「華夷秩序」による東アジアの国際関係は崩れ去り、清国の勢力は朝鮮からなくなり、懸案の「琉球帰属問題」が解決し台湾も日本の領土とし、初めて植民地を持つこととなる。   
しかし、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。
世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。



Posted by 中原歯科医院 院長 at 07:24