2011年07月14日
日露戦争の原因②
以下、この戦争に至るまでの経過、原因を述べる。
ロシアは、広大な国土はあるものの不凍港はほとんどなく、それを確保するべく南下することは国家の至上命題であった。19世紀半ばに入ると農奴解放を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争(1853~1856)などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、極東への進出を重視してきた。
1855年2月に伊豆半島の下田で日露和親条約を締結した。さらに、1858年に日露修好通商条約を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれて、樺太は両国これまで通り(雑居地)として日露の正式な国交が開始する。1875年には樺太・千島交換条約が結ばれて千島列島は全島が日本領とされ、それまで両国民混住の地とされていた樺太(サハリン)はロシア領に定められた。
この間、プチャーチンによって中国(清)に圧力をかけアイグン条約(1858年)で黒龍江東岸の中国領土を獲得したロシアは、中国分割に参加する列強の一角として、1860年中国から沿海州も獲得しマンチュリア(満州、現在の中国東北地区)への進出を強めた。
ロシア帝国は、再び、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争(1877~1878)などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。
ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。
ロシアは、広大な国土はあるものの不凍港はほとんどなく、それを確保するべく南下することは国家の至上命題であった。19世紀半ばに入ると農奴解放を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争(1853~1856)などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、極東への進出を重視してきた。
1855年2月に伊豆半島の下田で日露和親条約を締結した。さらに、1858年に日露修好通商条約を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれて、樺太は両国これまで通り(雑居地)として日露の正式な国交が開始する。1875年には樺太・千島交換条約が結ばれて千島列島は全島が日本領とされ、それまで両国民混住の地とされていた樺太(サハリン)はロシア領に定められた。
この間、プチャーチンによって中国(清)に圧力をかけアイグン条約(1858年)で黒龍江東岸の中国領土を獲得したロシアは、中国分割に参加する列強の一角として、1860年中国から沿海州も獲得しマンチュリア(満州、現在の中国東北地区)への進出を強めた。
ロシア帝国は、再び、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争(1877~1878)などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。
ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。
Posted by 中原歯科医院 院長 at 11:19